■”下川原焼”しもがわら、したがわらとは読みません、”したかわら”と読みます。一時期、”下川原”と”下河原”を併用した頃もありますが現在”河”という字を使用しません。 昭和30年に、地元の新聞に記載された記事(下川原焼について)の原稿を四代目の徳太郎が書いているので、これを紹介させていただきます。

■初代高谷金蔵は弘前の津軽藩士の家に次男として生まれ、壮年にして九州筑前に渡り製陶の技を学び文化の初年 南郡大沢村(現.弘前市大沢)に本窯を築き独力で製陶に従事、専ら飯碗、徳利、水滴等日曜雑器を造っていたが、 当時気候の関係上雪中は今のような暖房装置がないため作業不可能であった。その為冬季間の仕事として鳩笛や 土製の人形類、即ち3月節句人形、5月武者人形、唐子其他土地風俗を取り入れた笛付人形、アンコと称する小物、 玩具等製作を続けてきた。

■当時の藩公9代寧親公の政策として、当時他藩より数多き瀬戸物の輸入に、自給自足の目的で藩営の製陶を企て、文化7年現在地桔梗野(俗に下川原と称す)に製陶の工場を設置とともに藩公に召されて 当地に移り製陶に従事、筑前より五郎七という名工をも招き「下川原焼」として数多くの師弟を養成してきた。 藩命により色々の什器をはじめ花瓶、徳利、茶碗等.あらゆる陶器を造ってきたが、矢張り雪中の仕事として土人形類を造って市井に売り出していたものである。

■廃藩後民間に移されてから二代金松代に藩営当時の禁輸が解除され鯵ヶ沢を経て恵まれた素材と気候に技術の練達せる先進地よりの輸入品の為に本焼を続けて行くことが不能に陥り、専ら素焼の雑器や自ら人形を創り三大清六代に於いて続けられ、私も四代として先代の後を継ぎ、現在に至った。其昔は玩具などというものは一部の上方参りの人や参勤交代の範士達に持ち込まれた清巧をを極めた京人形などで、一般庶民には縁遠いものがあった。その為粗雑な土人形は地方玩具として大いに迎えられた。

■私の母は昭和20年に物故した。若い頃からこの業に従事してきたそうだが、その語ることによると冬季間は主に津軽地方の室内遊びの玩具として首人形などを盛んに売り、早春雪消えの季節には秋田方面、主として大舘、能代等。屋外の雪消えの新しい土に筵を敷きママゴトなどに愛玩され、従ってその売行きもはなはだしく、販売方法として背負子が各地にだされた。冬は津軽地方へ春は秋田へと背負子も沢山いるが、これに造り続かず、順番を定めて持って歩いたと良く聞くかされたものだ。

■私は明治35年からこの仕事についたが明治の末期まで秋田の米内沢、大館等に相当取引があった。大正に入り次第に売れ行きが落ち、同7年頃には殆ど従来の1割程より出荷がなかった。不況に追い込まれたその原因は先進地より次々と新しい玩具が続出、殊にセルロイド玩具出現は甚だしい打撃をあたえた。このため事業の継続を如何に計るべきや腐心したものである。

■偶々郷土玩具の蒐集家が全国に現れ、弘前にも郷土玩具研究家として全国的に知られている木村弦三さんなどがあらわれ、東京大阪に専門店もでき、全国的紹介されるようになりどうにか営業を継続してきた。 近年に至ってコケシの流行が全国に拡がりその影響を受けるようになったが反面鳩笛は平和のシンボルとして全般に愛玩されるに至ってきた、私の製作している玩具の中、鳩笛だけは他に比較して古今を通じてどうやら売り続けて来たようである。

■ 今後も諸賢のご批判を熟慮し、改良すべき点は是正しさらに次代にも続けていきたいと考えている。

 

■下川原焼土人形について ■

写真は天保年間に当所で焼かれた花器と火入